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繋がる死生観④ 西欧の死の歴史から『共同体の一員』と死について考える

 

繋がる死生観①~③はこちらから↓

①藤井風くんの曲「帰ろう」を聞いて

②『死って何?』日本人の死生観から考える

③『死への不安や恐怖って?むき合うことで得られるプラスの側面』

  

さて4回目の今回は、西欧の死の歴史から『共同体の一員』をキーワードに、現代風の形で穏やかに最後の日を迎える備えについて、一緒に考えてみたいと思います。

 

フランスの歴史家フィリップ・アリエス氏(Philippe Aries)は、著書『死を前にした人間』の中で、西欧における死生観を5つのモデルにまとめています。

  1. 前期中世以前からある、静かな諦観とともに共同体の一員とし死んでいく「飼いならされた死」。
  2. 12世紀に始まる、現世へ執着し自分個人が不幸にも死ぬと感じる「己の死」。
  3. 常に死を身近なものと考えるルネサンス期から18世紀にかけての「遠くて近い死」。
  4. 19世紀は家族や恋人の死が強い感情を呼びおこすロマン主義的な「汝の死」。
  5. 現代は医療技術と衛生観念の進歩のもとで死は隠蔽され、瀕死者は死の主体ではない「倒立した死」。

 中でも中世の頃の『飼いならされた死』の中にでてくる、共同体の一員という感覚について、見ていきたいと思います。 

 

 

~著書『死を前にした人間』より一部引用~

 

「飼いならされた死」は、前期中世以前の古い時代の死を前にした人間の姿であり、特徴としては、死が近いものは、自然の兆候や内心の確信によって死が近いことを知らされ、本人がそれを悟る時間が残されていたとあります。

 

死の儀式は、死にゆくものによって組織される公の儀式であり、己の最期が近いのを知ると、親類、友人、隣人が立ち会いながら、人生を回顧し、許しを乞い、足を東に頭を西に仰臥し静かにそのときを迎え、死の儀式はごく自然に受け入れられ、過度の感情の動きを示すことなしに行われいました。

また当時の墓地は、街の中の教会のとなりにあり、そこに次々と死体を納めていく小屋ができたりし、生者と死者が共存していたとあります。

 

このように、飼いならされた死というのは、死をなじみ深く、身近で、和やかで、自分の死ともなじみであったのと同じように、死者とも慣れ親しんでいた。

この伝統的な死の親しさには、共同体の一員としての死という捉えが多きく影響していた。

 

そして当時の人々は、人は死の中で人間という種の大きな法則のひとつにしたがっていたのであり、それをのがれようとも、それをもちあげほめようともせず、自然に死を受け入れていたとされている。

 

 

あなたはどう感じましたか?

「飼いならされた死」という表現、びっくりされた人もいたのではないでしょうか…

 

目に見えないぐらい遠くにあるものではなく、身近にある存在であり…

必要以上に警戒したり威嚇することなく、感情も大きく揺さぶられずに、その時がきたらそれに従う、自然に受け入れる…

と、私はそのような受取りました。

 

今の時代では考えられませんが、当時の墓地は、街の中の教会のとなりに死体を納めていく小屋ができたりなど、生活している地域の中に、死者が納められ、死にゆく人の生活は、日常の中にごく自然に存在するものであったのだと思われます。

 

自分の家族だけではなく、そこに地域にすむ共同体の一員として、その人を死を見て、肌で感じ、死を特別扱いせず、人間が生まれ、老い、死にゆく過程を見ながら、死が当たり前で身近であり、自然の姿だと頭ではなく、生活を通して肌で意識で感じていたのでしょう。

 

そして「飼いならされた死」では、自己意識を共同体の一員と認識し、死後は生者の近くに眠り共存しているというように、死は決して終わりではなく、人々は死後も何かと繋がっていると感じており、そこには自己消滅への恐怖生じなかったのではないでしょうか。

 

 

また、死が近づいていると、それを悟る時間お別れの時間や機会が与えられるというのも、人生の中でやりのこしたこと・伝えておきたい思いなどを果たす機会となり、穏やかな死を迎えるには大切な要素だとかんじます。

 

以前、訪問看護で関わっていた高齢の利用者さんで、『私、もう長くない気がするわ…』と言われて、その4日後に旅立たれた方がいらっしゃいました。その時は、血圧や脈拍の数値や、目に見える観察できる状態はいつもと変わりなく、ご自身の感覚からでた言葉でした。

その間に娘さんにご自身の遺品をさりげなく渡したり、自分なりのお別れの準備をされてました。

 

またある方は、旅立つ前日に、お世話になった家族へ、ネットバンキングの暗証番号を教えたという方もいらっしゃたり。

 

どちらも共通していたのは、積極的な治療はせず、ホスピスやご自宅でのお看取りでした。

自然な形で死を迎えると、死が近づくことを、ご自身の感覚で感じられることが多いように感じます。

 

話をアリエスの5つの死のモデルの変化に戻すと、やはり己の死という自分自身の死を表層意識で考え始めるようになってから、死についての概念が時代とともに変化し、それに伴い恐怖も増大していっているようにみえます。

 

歴史と共に変化した自己意識の個への変化死への人間の態度変化が、未知の死に対する恐怖を作り上げているともいえかもしれません。

  

 

死(終わり)を意識する人生について、4回に分けて様々な視点で綴ってきました。

 

お1人お1人人生の歴史があり、その方にとっての死生観があると思います(ないというのもその方の死生観だと思います)。

なので、まとめることはしません。

 

  

ただ、現時点で私自身が感じていることをまとめると…

死を意識する人生や死生観を育むことは、自分の可能性を広げ、今を精一杯生き、いつか来る死を穏やかに迎えることに繋がるのでは』ということです。

 

 

その備えとして…

現代風の形で、死を意識することを自分たちの生活に取り戻してはどうだろうか…ということ。

 

例えば、現代風な形で、共同体の一員という感覚を取り入れていく…

自宅介護介護サービス・家族や世代という枠を超えた地域の支えあい等をミックスしていく

 

同じような価値観の方が集まるコミュニティを作り、得意なことを担当しながら助け合って暮らしていく…。

 

コミュニティの中で、住人が年を重ね老い、最後の日を迎えるということを、暮らしの中で感じながら受け入れていく

 

もちろん、必要な時は医療や看護サービスを利用しながら…

 

ちょっと理想的な大きな話になってしまいました(;^_^A

 

まずは日々の生活の中できることから意識的に取り組んでいきたいと思います。

そして、今を精一杯生きる!

 

最後まで読んでくださって、ありがとうございます。