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繋がる死生観③『死への不安や恐怖って?むき合うことで得られるプラスの側面』

 

シリーズ①~③詳しくはこちらから↓

①藤井風くんの曲「帰ろう」を聞いて

②「死って何?」日本人の死生観から考える 

 

さて、シリーズ③は『死に対する不安や恐怖って?向き合うことで得られるプラスの側面』です。

 

そもそも、多くの方は死をどのように感じているのか?

どんな不安や恐怖をもっているのでしょうか…

その存在と真剣に向き合うことで、得られるプラスの側面について…

 

まずは、死に対するイメージについて。

 

~佐々木馨氏の著書『生と死の日本思想~現代の死生観と中世仏教の思想』より一部引用~

佐々木氏は、当時の学生を対象に(男性109人・女性114人)「人間の死と自分の死」というレポートを書いてもらい、その中のキーワードを抽出(平成12年頃)。

結果、死のイメージで一番多かったのは、男女とも共通で「怖い・恐怖」であった。

他にも、死は恐怖であり今は考えたくない、死は自分にとっては遠い存在である、死は悲しいもの・苦しいもの、恐怖でうけいれたくないなどがあり、死に対する恐怖をベースにしながら、様々なイメージがあることがわかった。

 

~立川昭二氏の著書『日本人の死生観より』より一部用~

平成8年~10年に、関東周辺で延べ585人(看護学生から80代の高齢者まで、男性178人・女性407人)に「死」に関するアンケートを試みた。

結果、設問の中の一つの「死を形容詞でいうと」という質問に対しては、若い人は「こわい」が多く、年配者には「寂しい」が多かった。

 

 

前回のブログでも触れましたが…

今の生に価値を置く傾向のある現代では、若い方は特に死についてあまり考えたくないとい人が多いかもしれません。

また、核家族化の影響もあり、祖父母が老いていく姿を日々の暮らしの中で感じることも影響しているように思います。

 

高齢者は『寂しい』というイメージが多いのは、同様に時代の変化と共に核家族化が進み、結果、高齢者だけの世帯が増えるなど、様々な社会変化の影響等が考えられるでしょう。

 

 

次に、実際に死への不安・恐怖には、どのようなものがあるのでしょうか…

 

アルフォンス・デーケン(Alfons Deeken)氏は、著書『生と死の教育』の中で、「死への恐怖には、例えば危害を加えそうな動物や病気などのような特定の対象に帰することのできない漠然とした不安と、はっきりした何かある対象が原因となって起こる恐怖とが複雑に絡みあっている」と言っています。

 

またデーケン氏は、死への恐怖や不安は万人に共通するものがあり、その類型を知ることは、過剰な恐怖や不安をノーマルな状態にまで緩和するためにも必要だと考え、次のように「死への恐怖と不安の9つのタイプ」に分類しています。

 

①苦痛への恐怖~精神的苦痛・社会的苦痛・霊的苦痛・肉体的苦痛という四種類が複雑に入り組んでいる。

 

②孤独への恐怖~人々に見捨てられて、独りぼっちで最後を迎えるのでは等

 

③不愉快な体験への恐れ~尊厳を失うことへの恐れ

 

④家族や社会の負担になることへの恐れ

 

⑤未知なるものを前にしての不安

 

⑥人生に対する不安と結びついた死への不安

 

⑦人生を不完全なままに終えることへの不安

 

⑧自己消滅への不安

 

⑨死後の審判や罰に関する不安

  (引用・参考:生と死の教育・アルフォン デーケン)

 

死に対する不安や恐怖は、「死にゆく過程に体験するようなはっきりした対象があるもの」から、「誰もが未体験の死後の世界への漠然とした不安」など様々な種類のものがあり、それらの要素が複雑に入り混じっていると考えられます。

 

  

最後に、前述のデーケン氏は、死への恐怖の側面についても触れています。

「恐怖には危険を知らせるシグナルのような機能や、創造性をはぐくむといった積極的な役割もある。

たとえば、病気やけがをしたときに何の痛みも感じなかったら、私たちは医師の手当てを受けたりしないかもしれない。~中略~

また、死への恐怖には、それまで気づかなかった潜在能力を呼び起こす刺激となる。」とも述べています。

 

 私たちは、死に対する恐怖や不安を否定的な感情として捉えることが多いと思いますが、プラスの一面もあるということです。

 

実際に、患者さんや親しい友人の闘病生活を通して、死のプラスの面を何度も感じたことがあります。

 

死を意識して自身の人生と本気で向き合い、その葛藤や思いを自分なりに昇華し覚悟を決めた人は、まるで生まれ変わったように見えます。

 

その姿は凛としていて、最後まで自分の人生を生ききります。

死してもなお、家族や友人に学びを与え続けてくれるように感じます。

 

その時、死という存在の大きさを感じずにはいられません。

 

 

しかしながら「死への不安・恐怖」は、複雑で多種多様でなものです…

 

病状やその時の精神状態、仕事や家族などを含めた社会的環境、信仰の有無、自分がライフサイクルのどの辺にいるか、どのような死生観を持っているか(いないかも含め)などによっても、不安や恐怖の状態は違うでしょう。

 

 

高齢者が寿命をむかえる前に感じる不安は、孤独に近い不安や恐怖かもしれません…

 

若い方や働き盛りの方でしたら、人生を不完全に終えることへの不安が強く表れるかもしれません。

 

体調や病状が悪化すると、痛みや苦痛に苦しみ、精神的にも辛い状況となるでしょう…

 

傍にいる人は、少しでも苦痛を和らげたり、何か自分にできることはないかと探し、親しい間柄であればあるほど、一生懸命に何かできることをしたいと思うでしょう…

 

 

途中、漠然とした無力感に襲われることもあるかもしれません。

 

 

ある方が、こんなことを教えてくれました。

病室で、隣のベッドから、お見舞いにきてたご家族のうたた寝の寝息を聞いてるだけで、すごくホッとしたんだよ…と。

生きてるという実感を感じ、1人ではない…と感じたそうです…

 

相手のことを思いながら、一緒に悩み、時間を重ねること…

そのこと自体が、とても尊く感じます。

 

その末、何もできない時がきたとしても、ただただ傍にいる…

もし、状況的に傍にいけない時は、気持ちを寄せる…

それも、とても意味のあることだと感じています。

 

老いて死にゆくということは、『死』という存在を、自分の姿を通して教え、沢山の学びを周りの人にも与えてくれていると感じます。

 

 

次回は、④西欧の死の歴史の中にでてくる『共同体の一員』と死について考えるです。

現代風の形で新たな共同体をつくってみては…。