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繋がる死生観②『死って何?』日本人の死生観から考える

 

前回のブログに引き続き『死生観シリーズ』です。

 

前回の内容はこちらです↓

①藤井風さんの曲「帰ろう』をきいて

  

まず最初に、死って一体何なんだろうか…

突然ですが、この世に生を受けたものは必ず死を迎えます。

これは誰もが知っていることですが、どこか実感を伴わないのが正直なことろではないでしょうか…。

 

自然な形の老衰や病死から、交通事故死や自殺による死、脳死や尊厳死等、倫理的な課題を含むものまで、とてもデリケートなテーマだと感じています。

 

同時に、誰もがいつかは経験することであり、家族や身近な仲間の死をいれると、一生のうちで何度も何らかの形で体験することです。

 

医学的には、死の三兆候(呼吸停止・心臓停止・ 脳機能停止)をもって死とします。

体は冷たくなり、もう自分から動いたり、話たりすることはありません。

 

でも、人間という存在は肉体だけではなく、精神・文化的な側面もありますよね?

肉体の死だけでは終わらない何かがあるように感じます。

  

今回は、 日本人の死生観の移り変わりに触れながら、文化的・哲学的な側面も交えて、死生観について考えてみたいと思います。

 

 

~社会保障論の研究者である広井良典氏の著書『死生観を問い直す』より~

 

広井氏は、死生観について「宇宙や生命体の大きな流れの中で、自分の生や死がどのような位地にあり、またどういう意味をもっているかについての理解や考え」とし、日本人の死生観は、次の3つの層からなりたっているのではと述べています。

 

第一の層は、もっともベースにある次元で、「原・神道的(ないし汎神論的)な層」と呼び、自然の様々な事物・事象の中に、たんなる物理的存在・生と死を超えた何かを見出すような感覚をさしている。

山や木や風や川などに八百万の神様を感じるアミニズム的な感覚です。

死を『帰るところ』と考えたり、『土に帰る』と表現する人もいます。

このように、自然の様々な事物の中に生や死などを身近に感じ、生と死の連続性を感じる感覚こそが第一の層にあたり、日本人の死生観のベースにある思想と考えられる。

 

第二の層は、「仏教的(あるいはキリスト教的)な層」です。

これら言語化され体系化された高次宗教の死生観において、「死」は「永遠(の生命)」、「涅槃」といった概念とともに抽象化・理念化され、第一の層の上に築かれるような形で浸透していったもの。

時間という点を中心に考えていくと、仏教的な死生観は、輪廻から解脱することで、宇宙的生命そのものへと一体化することで永遠の生命を得、キリスト教も、過程は異なるが、死から復活し、永遠の命を得ると捉えている。

両者は時間を越えた存在が死であり、永遠の命であり、言い換えれば、時間の観念のある世界を生とし、時間の概念の無い永遠の世界を死と考え、生死を二極化しているともいえます。

 

第三の層は、戦後とくに高度経済成長期に支配的になった死生観で、「生=有、死=無」という死生観です。

個人の意識や存在を物理化学的な事象として理解して、それを科学的と捉えるような考え方の枠組み。

戦後の日本は欧米志向のもとで、経済成長あるいは物質的な富の拡大ということに目をむけ頑張り、成長・発展ということが大切にされ、その先にある老いや死といったことにはあまり関心を払わず、ともかく生の充実を図ることに重きをおいてきた時代があった。

その結果、第三の層のように、「生=有・死=無」というように、生に価値を見出す死生観が広がっていったと考えられる。

 

それらのどの部分の死生観を強く持っている(もしくは持ってない)かは、世代や信仰の有無、経験の違いなどによって個人差があると言われています。

 (引用・参考:死生観を問い直す・広井良典)

 

  

あなたは、どう感じましたか?

 

お1人お1人に人生の歴史があり、死生観もそれぞれあると思います(ないというのもその方の死生観だと感じます)。

  

人の死生観は、時代の影響を受けながら(家族の形の変化・宗教の伝来・経済成長や医療の発展など)変化し、いくつかの要素から成り立っており、揺れ動いているものなのかもしれません。

 

私自身は、人間を「大きな自然のいのちのリズム」の中の一部と認識し、死後はその大きな自然(大元)に戻るという繋がりを感じる死生観が、シックリきます。

 

目に映る草木・花から、命を感じたり…

先祖供養を通してあの世の存在への思いをはせ繋がることで、心が穏やかになるように感じます。

 

 

以前、訪問看護に携わり、80~90代の高齢者のお宅を訪問していたことがありました。

訪問を重ねる中で、その方が大切にしていることが見えてきます。

 

多くの高齢者の方は、ご仏壇にむかって先祖に話しかけ、お線香をあげ、祈るということを大切にされ、先祖と繋がることが一つの支えになっているように感じていました。

 

また、自分から『死んだらどこに行くんだろうね…?あの世ってあると思う?』と、死後の世界についての関心をしめす言葉がきかれることもあります。

 

東京大学名誉教授であり、終末期医療・在宅医療に携わってきた 大井玄氏は、著書『死生学〔1〕死生学とは何か』の中で「在宅医療で看取りを行いながら関わっていく中で、「終末期医療に関わりあったこの半世紀、日本においては死への恐怖が強くなっているとの印象がある。(中略)逆に、子孫であれ、神仏であれ、自己を超越した存在とのつながりを感じている場合には、死の恐怖が露骨に観察されることは少ないように見える。」と述べ、特に若い人に死に対する不安や恐怖が増大しているようにみえることがあると述べています。

 

 

年代や経験も関係してきますが、何かと繋がりを感じる死生観からは

死は終わりではない…

自分は見守られている…

という安心感のような何かに繋がるのではないか…と感じます。

 

次回は、③『死への不安や恐怖って?むき合うことで得られるプラスの側面』についてです